2022年05月04日 知ってるだろ 私は沖縄(八重山)育ちではない。もちろん沖縄生まれでもない。ですが、長いこと八重芸とかかわっていると、八重山や沖縄出身の友人に、同等の知識や感性を持っていると勘違いされることがあります。 例えば、ヤシガニでお腹をこわすという話をしていると。 「ほら、うちの近くの海岸にこんな感じの木があるさ。あのそばで捕れるヤシガニはあぶない」 そんな木、見たことないです。 方言がわからなくて、 「ねえ、『シコーレー』って、どういう意味?」 「え?どういう意味って?・・・・・何が?何で?」 つまり、だれでも知っている方言(私は知らないのですが)をわざわざ「どういう意味?」と尋ねられて、相手は「ん?ふざけているのかな?何か特別な意味があるのかな?ひょっとしたら、とんち?」などと勘繰られてしまう。こうして相手にしてくれるのはまだ良い方で、こちらが「どういう意味?」とたずねたら「アハハ、またまたー」と冗談だと思われるというのもありました。 八重山や沖縄のことについて、話を聞いたり本を調べたり、それなりに知識を得ようとしてきましたが、やはり育った人の経験、知識量、感性と同じというわけにはいきません。未だに教えてもらいたいことが次々とでてくるのです。 コメント(0) Tweet
2022年03月28日 ケーブルテレビ 私が学生だった1978~頃、大阪ではケーブルテレビという言葉はほとんど聞くことがなかったと思います。当時はまだ衛星放送は一般的ではありませんでしたし地上波を受信しにくい場所というのもあまりなかったでしょう。ケーブルテレビの必要性を感じませんでした。 でも、当時から石垣島ではケーブルテレビがそこそこ人気があったようです。NHKしか見られない(民放が入らなかった)のが大きな理由だったでしょう。ケーブルテレビならチャンネルが多いですからね。 登野城の測候所近くの先輩の家では、当時まだ珍しかった家庭用のビデオデッキ(もちろんテープ)がありました。NHKの2つのチャンネルしか見られないのに、どうしてビデオが必要なのかと思いましたら、沖縄本島の親戚にテレビドラマを録画してもらって、それを石垣まで送ってもらっているのだと聞きました。 今は、八重山でも民放が見られますが、ケーブルテレビはネットやスマートホンなどの環境と相まって広く需要があるようですね。 私が卒業して間もないころだったと思います。八重芸の石垣市民会館での発表会の宣伝を、ケーブルテレビの番組内でしていただけることになりました。スタジオで「ダートゥーダー」を披露したそうです。棒を手に、飛んだり跳ねたりする民俗芸能なのですが、「スタジオの天井を棒で突いてしまった」という話をしていたのを思い出します。 コメント(0) Tweet
2022年01月16日 由布島 今は、島全体が観光施設になって、西表島から水牛車で海を渡るという不思議な体験のできる島。 昔は一つの集落があったそうです。西表島はマラリアが怖かったけれど、由布島は安心だったという話を聞きました。だから人が住んでいて、小中学校もあったのだそうです。 学校があれば、運動会もある。 「由布島」ではね、タコ採り競争があったんだ。」 そう教えてくださったのは、八重芸同期の部員の伯父さん。当時石垣島の中学校の教頭先生をしておられたはずです。その方がおっしゃるのっだから、まちがいなく「タコ採り競争」はあったでしょう。でも、どんな競技だったのか聞いておけばよかったのですが、聞きそびれてしまいました。 競技と言う限りは、勝敗を決めなければいけません。よーい、ドン。で運動場から海に走る。まあ、小さな由布島ですから運動場と海は隣同士のようなものでしょう。海でタコを捜して捕まえて、運動場に戻る。早く戻ってきた人の勝ち!なのでしょうか。大きさは関係ないのか。そもそも、よーいドンで参加者が海に行っている間、運動場に残された人々はぼんやりと待っているだけなのでしょうか。待っている間に簡単にタコがとれるのでしょうか。あるいは観客も一緒に海に行く?行かなくても客席から見える?それとも、運動場では他の競技が行われている? いつか、タコ採り競争を知る人に会って、話を聞いてみたいと思っています。 コメント(0) Tweet
2022年01月07日 ヤシガニ たぶん、最初は西表でした。西表出身の部員の運転するトラックの荷台に乗って移動中。海岸沿いの真っ暗な道で突然停まりました。そして、バックします。数メートルバックしたところで車が停まり、部員が降りてきて、 「ほら、ヤシガニ」 道端に、大きなヤシガニがいました。内地の私が喜ぶと思って停まってくれたようでした。 このとき、ヤシガニにも驚きましたが、同じくらい驚いたのは車のバックのときに点灯するライトです。あれって、バックしますよ!の目印みたいなものだと思っていましたが、真っ暗な道では後ろを照らす大切な「後照灯」になるんですね。 もう一度は、夏合宿だったと思います。OBが大きなヤシガニを取ってきて、なぜか、合宿所の食堂のテーブルの脚に、紐をつけて(犬のように?)つないでありました。生きてますから、歩き回ります。そろそろ食事の用意をしようというときに、ヤシガニがテーブルの脚をよじ登り、天板の角のところにしがみついていたのでした。このままでは困ります。私は勇気を振り絞って、ヤシガニの背中をつかみます。テーブルから引き離そうと引っ張りますが、ヤシガニの力は強く、片手では引き離せません。仕方なく、左手で右手首を持って、両手の力を使って引き離そうと力を込めました。すると、「ゴトゴトゴト」テーブルが動いてしまいました。そのテーブルを使うのをあきらめたのでした。 コメント(0) Tweet
2021年12月28日 栄養会 12月の発表会が近づくと、「栄養会」というのがありました。普段の部室での飲み会は、近くの商店で泡盛と乾きものを少々。ときどき鯖の缶詰や、そう、ゆし豆腐を買ってきたこともありましたか。まあ、その程度のものでした。ただ、年に一度の「栄養会」は、すき焼きを食べるのでした。準備をする部員もそれを待つ部員もみんなにこにこわくわく楽しげでした。そこで英気を養い、発表会にまっしぐら。というわけです。 この栄養会、私が卒業してからもしばらく続いていたはずですが、いつの間にか無くなっていたと思います。生活が向上して、それほど食べることに執着しなくなったからでしょう。 コメント(0) Tweet
2021年10月18日 バナナ 沖縄の家の庭には、バナナが生えている。というのは、ウソではありませんが多くはありません。畑の一角にあったり、山の一部に生えていたり、まあ、バナナ=「実芭蕉」じゃなくて糸を作る方の「糸芭蕉」だったりしますが。 沖縄では、まだ青いバナナをどこからかとってきたりもらったりして、しっかり追熟させてから食べるものです。完全に黄色になって、けっこう黒くなってから食べます。 大阪ではバナナはスーパーで買って食べるもの。買ってきてすぐに食べられるものです。大阪で見るバナナは少し青い部分があってもたべられるのです。その感覚で沖縄でバナナを食べようとすると、熟れる前に食べて吐き出すことになります。沖縄ではお店で販売されているものでも、島バナナの場合はきちんと追熟させなければいけません。 あのぷっくりとかわいらしい島バナナ。ときどき懐かしく思い出されます。 石垣の友人が、広いさとうきび畑を見ながら言いました。 「昔の人は偉いですよね。ほら、あそこ、バナナがあるでしょ。あれは畑の境界線を表しているんです。バナナは倒れたりしても、また小さいのが生えてきて育つんですよね。だから境界線は無くならない。しかも、食べることができる。ハハハ。よく考えてますよね」 なるほど、バナナは境界線にも使われるんですか。そういえば、昔の三線に、「渋張り」というのがあって、その渋は芭蕉から採ったものだと聞いたことがあります。実芭蕉か糸芭蕉かはわかりません。どっちでもいいいかも。 コメント(0) Tweet
2021年10月10日 涙 八重芸があったら、今はちょうど12月の発表会に向けて、日曜日も練習をしている時期です。毎年、日曜練習を1度か2度、見に行ったものでした。沖縄在住OBの中には毎週日曜日に見に来る強者も。日曜日で仕事が休みだから来てくれるわけですが、日曜日はゆっくり休みたいでしょうに。頭が下がります。 発表会が近づけば練習にも力が入ります。 「そんな踊りなら、やらない方がマシだ!」 練習が終わっての反省会の場で、OBから言われることがあるんですよ。言われた方はショックです。でも、反論はできません。OBって、やっぱりちゃんと見ているものでして。指摘されるところはやはり指摘されるべきところなのです。時には、涙する部員もいます。 八重芸OBの偉いところは、ダメ出しをしたままにしないで、練習に付き合ってくれえるところです。反省会が終わってから、練習場から部室に戻ると、部室の外の真っ暗な駐車場の片隅で、言ったOBと言われた部員が一生懸命踊りの練習をしているという光景を幾度となく見ています。そして、次の日曜練習では、 「前に指摘したところ、ずいぶんできるようになったな。これなら、舞台にあげられる。がんばったな」 こんなふうに言われて、うれしくて泣いている部員も見ました。 普通、OBたちは涙を流す部員をやさしい目でみているものなのですが、発表会当日。化粧や着付けが終わって、開演前のミーティングをしているときは違います。そうです。ここで泣かれると、化粧が崩れる。せっかく完成した目が真っ黒になる。なのに、 「こうして発表会ができるのも、部員のみんなとOBと、島のみなさんのおかげです。本当にありがとう・・・」 なんて言いながら泣いてしまう部員が必ずいるんです。泣きそうな部員を見ると、 「こらー、泣くなー。絶対泣くな!泣いたら死なす!!」 と本気で怒ることがあります。まあ、死なすとまで言われれば、笑ってしまうわけですけど。 あるとき、一人の女子部員がミーティングでしっかり泣いてしまったのです。俯いて涙を流しています。 「こらー、化粧が落ちるー」 とOBから怒鳴られたとき、彼女が泣きながら言いました。 「大丈夫です。真下を向いて目玉から直接下に落としていますから」 頬を伝わらせず、眼球から涙を滴らせていたのです。こんな高度な技が使えるなんて。八重芸はすごいです。 コメント(0) Tweet
2021年09月18日 遊び 八重芸の発表会の特徴の一つとして、八重山の生活を切り取って舞台にのせるというのがあります。つまり、歌三線と踊りだけでなく、農作業や大工仕事、雨ごい、酒造りなど、もちろん、そこに唄が絡んでくるのですが、いわゆる「研究所の発表会」とは一線を画すものだったと自負しています。 ということで、子どもの遊びも舞台にのせたこともありました。私は舞台で演じたわけではありませんが、「牛ぬぱん、馬ぬぱん」などは、先輩たちの歌を聞いて覚えています。今でも歌えます。大阪の小学校に沖縄文化の講師として呼ばれて、子どもたちにこれを教えたこともあります。けっこう好評でした。その学校の先生から、後日談としてこんな話が。 「あのあと、遠足があったのですが、地下鉄の中で子どもたちが『うしぬぱーん・・・』とやり始めまして。あわててやめさせました。ハハハ」 地下鉄の座席は、通勤電車のあの長い椅子です。真ん中が通路になっているわけですが、そこへ足を伸ばし大声で歌われては、引率の先生はたまったものではありません。 これは大変でしたねと、一緒に笑いました。 コメント(0) Tweet
2021年08月02日 ミンサー 歌や踊りに関われば、織物にもいくらか関心を持たざるを得ません。「ミンサー」とは帯に使われている織物あるいはその模様を指します。 歌にも出てきますが、ミンサーというのは「五つ」と「四つ」の模様が特徴です。歌に「いちゆぬみんさー(五つ四つのミンサー)」という歌詞も出てきます。 三線の胴に巻かれている布。手皮(てぃーがー)と呼びます。左御紋(ひじゃいぐむん)」という、あの、火の玉が追いかけっこをしているような模様が入っているのが一般的です。あれは、もともと首里王家の家紋だそうです。本来は、左御紋ではなくて自分の家紋を使うべきなのですが、いえ、もちろん自分で作ればそれはすばらしいことですが、市販のものはとりあえず左御紋となるんでしょうね。 またミンサーに戻ります。ミンサーの「五つ と 四つ」は方言では「いちち とぅ ゆーち」ですので、「五 四」は「いち ゆー」これが「いちぬゆー=いつの世(まで)」と洒落て、永遠の愛を誓う(求める)といった意味になります。で、女性が男性にミンサーを織ってプレゼントするという習慣があった。とされています。 私が学生の頃、小浜島の先輩の実家へ行ったときに、縁側に機織り機がありました。今は使っていないというそれは、先輩の話では「これは地機(じーばた)といって、古い形のもの。めずらしいんだ」ということでした。普通に見る機織り機はデスクに向かって仕事をするような感じですよね。でも、地機は床に座って足を延ばして機織りするのだそうです。今はおそらく、博物館へ行かなければ見られないのでしょう。 私が卒業してから、内地でも三線がそこそこ見られるようになってきて、そのころからか、ミンサーの手皮も販売されるようになりました。私がよく見たミンサーは、手皮には少し幅が狭いんです。市販のミンサー手皮はそのあたりはきちんと工夫されていて、サイズもぴったり。恰好いいなと思っておりましたら、後輩OBが「これ、夫の祖母が織ったものなんですが、先輩に」とプレゼントしてくれました。「いやいや、そんな貴重なもの、もらうわけには」「いえ、数本つくってありまして、これは先輩にと」と言ってくれたので、ありがたく頂戴しました。手皮用に縁打ちされ、紐を通す穴が開けられていました。が、棹の後端(猿尾)用の穴は開いていません。このミンサー、愛は込められていませんが、気持ちは込められています。穴をあけるのをためらってしまって、まだいただいたときのまま置いてあります。一生使えないと思います。 コメント(0) Tweet
2021年07月12日 イノシシ 初めてイノシシを食べたのは、八重芸2年生のときだったと思います。 どういう理由だったかは忘れましたが、同期の女性部員、川平出身でしたが、この部員と一緒に川平の実家まで行きました。おばあさんが出てこられて、部員が私を紹介します。「これ、内地の人よ」すると、おばあさん「まあ、わざわざ日本から・・・」と頭を下げてくださいます。なんと返していいのかわからず、とにかくこちらも頭を下げました。で、上がっていくように言われ、ちょっとお邪魔を。そのときに、イノシシをごちそうになりました。イノシシといえば「ぼたん鍋」というのが内地の定番ですが、川平で出されたイノシシは、煮つけのようなものでした。初めてで少し緊張しながら箸を伸ばしましたが、癖もなく、おいしかった記憶です。 その後、OBになってから、西表の夏合宿でご近所からいただいたというイノシシの煮つけを見ましたが、それは私の口には入りませんでした。 内地でイノシシを食べたのは、それよりもずっと後になってから。丹波篠山の囲炉裏のある古民家風のお店でした。みそ仕立てのぼたん鍋は、丹波の冬のごちそうです。八重山で食べたイノシシとは、まったく別の食べ物でした。 コメント(0) Tweet